野球小僧 season16

丸坊主にして自由な時間をなくしてまで,青春をそこに注ぐことに意味がある。

空白の一日

今年、既に埼玉西武ライオンズ牧田明久選手がポスティングシステムMLB挑戦を志願することを表明しており、北海道日本ハムファイターズ大谷翔平選手もポスティングシステムMLBへ移籍することが既成事実となっています。

しかし、そのポスティングシステムは2017年10月31日限りで失効しています。現在、新制度についてはNPBMLBの間で協議中だとのことです。NPB事務局は「NPBとしては新ポスティング案をMLB側に投げており、向こうからの回答を待っている状態。締結までにそう時間はかからないと思う」と話しています。

そこで、懸念されたのは現行システム失効から新システム発効までの空白期間に、獲得に動くMLB球団が現れたらどうするか。そんな事態を恐れるMLB側はNPBとの間で、「新ポスティングシステム締結まで凍結」で合意しています。

さて、この空白期間というか、空白の一日で思い出されるのが、かつて1978年に読売ジャイアンツが当時の野球協約の盲点を突く形で、ドラフト会議前日に江川卓さんと契約を結び、「江川問題」「江川騒動」「空白の一日」と呼ばれたプロ野球界がひっくり返るような大騒動に発展した問題です。

とりあえず、日本野球協議会未公認の「日本野球記憶遺産」の一つだと思います。

1973年。作新学院高のエースとして江川さんはノーヒットノーラン9回、完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残して日本中の注目に。江川さんは大学進学を希望しており、ドラフトでは指名されないと思われたものの、指名順位6番目だった阪急ブレーブスがドラフト1位で指名。しかし、江川さんは大学進学を変えずに入団拒否。
1977年。法政大では1年目からエースとして活躍し、通算47勝(史上2位)、完封数17はリーグ記録、ベストナイン6回、通算奪三振数443個(現在2位)などの記録を残し、ジャイアンツへの入団希望を表明。しかし、ドラフトでは指名順1番のクラウンライターライオンズが指名(この時のジャイアンツの指名順は次の2番目)。これに対し江川さんは「福岡は遠すぎる」という名言で入団を拒否。
1978年。大学卒業後、作新学院高職員として、米国・南カリフォルニア大学へ聴講生として野球留学
1978年10月12日。クラウンライターライオンズの運営会社が西武グループに球団を譲渡。1979年より球団名を西武ライオンズに改め、本拠地を埼玉県所沢市に移転させることを発表。交渉権も引き継ぎ、本拠地が関東から遠いという拒否理由を取り除いて入団交渉を行うも、江川さんは入団拒否。
1978年11月20日。ライオンズの交渉権が喪失。江川さんは11月22日に予定されるドラフトの対象選手となる。江川さんは米国から緊急帰国。
1978年11月21日。午前中にジャイアンツ「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形では江川さんと入団契約を締結。

当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていました。この規定は前日まで交渉を続けた場合には、その交渉地が遠隔地だった場合に、気象の急変などによって球団関係者がドラフト会議に出席できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間として設けたものでした。また、当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」であり、当時の江川さんは社会人野球にも行かなかったため、野球協約の文言上では「ドラフト対象外」でした(1978年7月31日協約が改正され「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」となりましたが、「次回ドラフト会議当日から発効する」ことになっていました)。

これらのことから、ドラフトの前日の11月21日には西武ライオンズの交渉権が消滅しており、「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフトが行われる11月22日以後であるとジャイアンツは解釈し、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川選手と自由に契約できると主張して入団契約を行ったというものです。

まさしく、野球協約の盲点であり、野球協約の死角を突いたことで、私もこれを見つけ出した人は大したものだと思います。協約を読み込むという基本的なことをしていますしね。ただし、これを認めればドラフトは骨抜きになるため、当時セ・リーグ会長だった鈴木龍二さんは、この契約を無効とする裁定を下しました。これはこれで当然のことだと思います。

1978年11月22日。この裁定に対してジャイアンツが猛反発し、抗議の意思として22日のドラフト会議を欠席(なお、ジャイアンツは後日、ドラフト外入団選手扱いで現GM鹿取義隆さんら新人選手を獲得)。ドラフトでは、この契約騒動に抗議する形で江川さんを指名する球団もあり、南海ホークス近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ阪神タイガースの4球団が1位指名(この年からウェーバー形式から入札形式に変更)。4球団の抽選の結果、タイガースが交渉権を獲得。

これに対してジャイアンツは江川さんとの契約の正当性を主張。「全12球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」とNPBコミッショナーに提訴しました。

1978年11月23日。ジャイアンツは江川卓選手の地位保全の仮処分申請を東京地裁に申請。当時オーナーの正力亨さんは江川さんとの交渉権が認められないのであればセ・リーグを脱退して、新リーグを作る構想を発表。
1978年12月21日。コミッショナーは「ドラフト会議欠席はジャイアンツが勝手に行ったこと」とし、ドラフト会議の結果はそのまま有効の裁定。さらに「江川とジャイアンツの入団契約は認めない」「タイガースの江川に対する交渉権獲得を認める」ことを正式に決定。
1978年12月22日。コミッショナープロ野球実行委員会で「江川には一度タイガースと入団契約を交わしてもらい、その後すぐにジャイアンツにトレード(1979年1月31日を期限)させる形での解決を望む」という強い要望を提示。これはプロ野球運営に支障をきたす可能性が出てきていたため、「江川のジャイアンツ入り」という目的を達成させることによって問題の解決を図ろうとするものだった(ただし、野球協約では新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されていた)。タイガースはこれに強く反発。
1978年12月27日。ジャイアンツはコミッショナー要望に対し、江川さんとの契約を解除。しかし、江川さん側はトレードの確約を得られないことから契約交渉ははかどらず。
1979年1月31日。タイガースは江川さんと入団契約を交わし、同日中にジャイアンツの小林繁さんとの交換トレードをすると発表。

最終的にコミッショナー要望を受け入れることとなりました。当時、ジャイアンツのエースだった小林選手は、キャンプ地の宮崎に向かうため午前中に都内のホテルから羽田空港に向かっていましたが、ジャイアンツ球団関係者に呼び止められ、ホテルニューオータニへと連れていかれ、そこでタイガースと契約した江川さんとの交換トレードを告げられ、数時間かけて考えた末、トレードに同意したという話は有名です。また、この解決策は特例であり、慣例および前例とはしないこととなりました。当時、トレード要因として他に名前の挙がったのが新浦寿夫さん、高田繁さん、淡口憲治さんでした。

実際、ジャイアンツは1月30日に小林さんをトレード要員とすることを決め、自宅へ電話をかけて連絡をとろうとしたが連絡がつかず、空港で待ち受けることになったそうです。小林さんの記者会見は2月1日午前0時であり、江川さんが午後4時20分にタイガースとの間で入団契約を結んでいることから、この時間帯には小林さんが移籍に同意していたのだろうと推測されています。会見後、小林さんはチームメイトに挨拶をし荷物を取りに行くために宮崎へ行こうとしたが、「君が行けば、また騒ぎになるし、選手たちも精神的動揺をきたすかもしれない」と球団から止められています。

1979年2月8日。プロ野球実行委員会でこのトレードの野球協約違反が再び指摘。コミッショナーはこのトレードが協約違反であることを承知で要望を出していたのだが、改めて指摘されたことにより強い要望を全面撤回。結果的に交換トレードという形を取らず、小林さんは交換選手なしで移籍(契約上は金銭トレードで、江川さんの契約金をジャイアンツが全額支払うことで相殺)、江川さんは開幕日の4月7日に移籍(江川さんがキャンプやオープン戦に参加せず、入団発表が4月7日に行われたのはこのため)。当時の金子コミッショナーは強権発動の責任を取る形で辞任。ジャイアンツは、一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕から5月31日までの約2ヶ月間、江川さんの出場を自粛とした。
1979年2月10日。小林さんは大阪市内で記者会見を開き、タイガースへの入団を発表。
1979年2月11日。小林さんキャンプ入り。
1979年4月7日。江川さんジャイアンツ入団。
1979年4月10日。タイガース vs. ジャイアンツ一回戦で小林さんがジャイアンツから勝利。この年ジャイアンツ戦8連勝。
1979年6月1日。江川さん一軍選手登録。
1979年6月2日。江川さんタイガース戦でプロ初登板。
1980年8月16日。ジャイアンツ vs. タイガースで江川さんと小林さんが先発。結果は5-3でジャイアンツが勝利、江川さんが完投勝利。小林さんは5回に江川さんに勝ち越しのヒットを打たれて4失点で降板、敗戦投手。

2007年秋。CMで小林さんと江川さんが共演。小林さんは「いまさらコマーシャルに出るつもりはない」「俺がやると言っても、江川君はどうなの? 断ると思うよ」とオファーを拒絶。江川さんの「小林さんさえよければやりたい」という意向を聞いて実現。CMのテーマは「両者の和解」でした。出演直後、小林さんは雑誌のインタビューを受け、江川さんについて以下のように語った。


「若い頃って、自分がしんどいことばかり考えているんですよ。だけど、たぶん江川も、すごくしんどかったんですよね。もしかしたら俺よりも苦しい人生を送ってきたのかもしれない…。だから結末をつけてやらなきゃいけないかなって思ったね。彼のしんどさに結末をつけないと、俺も結末がつかないからね」