桧山泰浩さん(元近鉄バファローズ)の名前を目にして、すぐにピンと来た人はよほどの野球通だと思います。大変申し訳ないのですが、私には全然ピンときませんでした。さらにドラフト指名時の話を読んだときにも、そのプレーしている姿などを思い出せませんでした。
1985年ドラフト会議の目玉は大阪・PL学園高の清原和博さんでした。清原さんと相思相愛と言われた読売ジャイアンツが、進学希望の同じPL学園高の桑田真澄さんを1位指名したことで大きなニュースになった年です。その年の選抜大会に福岡県で有数の進学校である東筑高のエースとして甲子園出場を果たした、将来を嘱望された大型ピッチャーでした。埼玉西武ライオンズから1位指名された清原さんは指名競合し、清原さんの交渉権を獲得できなかったバファローズの外れ1位でした。外れ1位とはいえども期待の大きさを表しています。
清原さんは1年目からレギュラーの座をつかみ、打率.304 ホームラン31本 78打点と活躍し、その後、ライオンズの黄金期を支える主砲として不動の地位で活躍して行きます。
しかし、桧山さんはずっと二軍暮らしが続きました。「私には、ほかの選手のようなガムシャラさがありませんでした。野球に対する情熱が足りなかったのかもしれない。なんとしてでもライバルを蹴落として、一軍にはい上がってやろうという気持ちがなかったですね」と振り返っています。
ドラフト1位というプレッシャーも大きく「自分の野球の能力を考えたら、プロでも『やれる』と思いました。すぐには無理でも何年か後には一軍でプレーできると。でも、実際には、投げては打たれ、投げては打たれの繰り返しです。そこで課題を見つけて練習に打ち込めばよかったんでしょうが、野球に対して、努力をすることに対して『なんか、嫌やな』という気持ちになってしまいました」と思っていたそうです。
プロ3年目の1988年に仰木彬が監督に就任すると、1986年ドラフト1位の阿波野秀幸さんを中心にリーグ優勝を狙える投手陣が構築され、桧山さんは完全に一軍戦力の外にいたという。
「いくら頑張っても、人間は180度変われるものじゃない。そう悟っておりました。プロでの4年間が終わって、もう体も鍛えようがない。技術が上がるとも思えない」5年目、6年目のシーズンも代わり映えしなかった。何かを変えようという気力はなく、これまでと同じ日々をただ過ごしただけだったそうです。「私自身はもうやる気は全然ありません。毎日毎日、遊びほうけ、飲みまわっていました。練習にも身が入りませんでした。ほかの人には迷惑をかけないようにして、『あとは死を待つだけ』でした」。
その後、桧山さんは韓国プロ野球に移籍したものの、右ひじを故障し、引退することになりました。選手時代に稼いだ年俸は遊興費で消えていました。「プロ野球選手は、おカネは稼いでいるけど、社会人ではありません。言ってみれば、子どもの延長みたいなもの。野球をやめて日本に帰ってきても、自分には何もない。すぐに知り合いから電話がかかってきたので、そこで働かせてもらいました。大阪で2年間、衣料品関係の会社に勤めました」と桧山さんは話しています。
「プロ野球選手の引退後の仕事というと、飲食業が多いけど、自分には合いそうもない。180度違う世界はないかと考えたときに、資格士業が浮かびました。いろいろなものがありますが、飯を食えないと意味がない。『食える資格』というのは、どれも難関です。検討してみると、司法書士、弁護士、税理士、公認会計士が残りました。目指すべきは、この4つのうちのどれかだと思ったのですが、私は大学に行ってないんです。司法書士以外は大学の卒業資格がいる。正確には、教養課程を修了すればいいんですが、いまから大学に入る時間がもったいない。でも、司法書士なら、大学に行かなくても取れる」と考えます。
しかし、はじめは、司法書士の勉強方法、傾向も対策も解りません。「自分で勉強するようになって、やっとどんな仕事かがわかりました。好きとか嫌いとか言える立場ではないから、スムーズに入れました。民事訴訟をしたり、登記関係をしたり、『こんな仕事もあるんか』というのが第一印象です」と言います。
司法書士試験の合格率は3%ほどだと言われています。桧山さんは2度目の挑戦で29歳の時に合格したが、働きながらの受験勉強ですが、野球界での苦労や挫折がありましたから、それに比べたら受験勉強なんか、屁みたいなものだったと言います。
自分が勉強すれば、1+1が2になり、2+1は3になります。絶対にマイナスになることはありません。野球の場合は、1+1が2になるとは限りません。5になる可能性もあるけど、マイナスになることもあります。いくらピッチャーがいいボールを投げても、バッターに打たれたらマイナスです。でも、勉強はやればやるだけ結果が出ます。
桧山さんは進学校だったこともあり、学ぶための基礎があり、学習の方法も知っていました。「野球に限らず、スポーツの厳しさからすれば、受験勉強の大変さはどうってことはありません。私自身、試験勉強の経験がありますから、コツのようなものもわかるし、プレッシャーもありません。やればやるだけ実力がつくんだから。本当に受験勉強の苦労はありませんでした。野球界のほうが厳しかった。体力的にも精神的にも」ということで、知識がつけば面白さが増えて行き、薄かった仕事への興味も増していきました。
野球の世界だけで生きられる人間などほとんどいません。現役引退後に監督やコーチとしてチームに残れるのはほんのひと握りですし、解説者などでも同じです。そのときに頼りになったのが、桧山さんの場合は、学力であり、試験勉強の経験でした。
「そもそも、日本の高校球児が勉強をしないということがいちばんの問題じゃないでしょうか。野球の強い野球学校に入ったら、勉強はそっちのけで野球ばかり。学生の頃に勉強したことがないから、自信がないんですよ。だから、野球界にしがみつく。制度の問題だと思います。高校生にはちゃんと勉強させないと」
プロ野球選手のほとんどは、いずれ野球とは別の世界に行かなければなりません。これはもうどうしようもない決定事項だと思います。でも、そうなることは頭のなかではわかっていても、現実は見たくないでしょうし、力の衰えを自覚した選手も、能力の限界を悟った人間も、1年でも長くユニフォームを着たいと思うものでしょう。そういう生き方もあるでしょう。
1つのことに打ち込むことは尊いことです。その経験を通じて得るものはたくさんあるでしょう。でも、もっと広い視野で自分を見つめることが必要なのではないのでしょうか。世の中は思いだけでは通じません。才能がなければ知恵をつけろ、知識を増やせばいいのではないか。桧山さんの生き方ははそのことを教えてくれています。
明日は12球団合同トライアウトです。