野球小僧 season16

丸坊主にして自由な時間をなくしてまで,青春をそこに注ぐことに意味がある。

東の太陽 西の月星

現在、東アジアに位置する朝鮮半島において太平洋戦争以来、日本に直接被害が起きそうな事態となっていることは連日のニュースで報道されているとおりです。私としては某大統領と某委員長の良識ある判断によって、一線を踏み越えないことを信じています。

今から32年前の1985年のことです。1980年に中東のイラクがイラン国内に侵入し、始まったイラン・イラク戦争はこう着状態にありました。両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日に「イラン上空を航行するすべての航空機はイラク空軍の攻撃対象となる」イラク政府のスポークスマンが全世界に発した声明は、48時間後に実行されることになりました。この無差別攻撃が始まれば、もうイランから逃げることが出来なくなります。その時イランにいた日本人は約300人。イラン脱出のために航空会社のカウンターに人が殺到する事態になりました。

イラン脱出を願い航空券を求める人でごった返すカウンターで、次々に欠航が決まって行きます。イランへの定期就航便を持たない日本の航空機は現地に入れず、ヨーロッパの航空会社は既に定期便をキャンセル。どの国も自国民の救出を優先するため、臨時便に切り替え、ギリギリの運行便で自国民を乗せて飛び立って行きます。やっとの思いで航空券を手に入れた日本人もいましたが、自国民を優先して搭乗させる航空会社の取り扱いに航空券はただの紙切れとなる場合もありました。

テヘランソ連(当時)のエアロフロート機は自国民を優先し、日本人の搭乗はすべて拒否。オーストリア航空2機とエールフランス機、フルトハンザ機で40余名の日本人が脱出しましたが、なお200人以上日本人が取り残されました。

当然、日本政府も対応に追われます。当時、日本の航空会社はイランへの定期便がなかったため、日本航空がチャーター便を飛ばすにはイランとイラクに航行安全の確約を取らなければなりません。日本政府はイランの確約を取ったもののイラクからの返事が得られませんでしたが、日本航空が救援機を飛ばすことになりました。ところが、組合がこれに待ったをかけ、飛ばすことが出来なくなってしまいます。

テヘランでは毎晩爆撃が続き、命の危険を感じる日本人はテヘラン市内のホテルに身を寄せ、日本大使館からの救援情報を待っていました。数時間後にはイラクの無差別攻撃が始まります。日本航空は飛んでこないとの一報にイランにいる日本人は絶望の淵に沈んでいました。その時、信じられない情報が飛び込んで来るのです。

トルコ航空が飛んでくる」3月19日午後8時30分のタイムリミットが迫ってくる中、空襲警報が鳴り止まないテヘランの国際空港に2機のトルコ航空機が降りて来ました。定期便に寄り添うようにもう1機のトルコ航空機が降りて来たのです。1機目の215人乗りのボーイング727の全座席は搭乗を待つ日本人216人にすべてが与えられ、2機目には1機目に乗り切れなかった日本人と、救援を待っていたトルコ人が乗り込みました。1番機が飛び立ったのは午後7時15分、続いて2番機が飛び立ったのは午後20時00分。まさにギリギリの脱出劇という際どさでした。

無事にイラン国境を超えた際、機長は機内放送で「ようこそトルコへ」とアナウンスし、この粋な計らいに搭乗客全員が拍手したそうです。

当時、トルコに直接依頼をしたのは2つのルートだとされています。1つは当時、伊藤忠商事㈱のイスタンブール(トルコ)支店長が当時トルコのオザル首相に依頼したルート(この時の支店長は駐在16年で、首相とはパジャマで行きかう仲と言われるほど、昼夜を問わずなんでも相談し合っていたそうです)。その時の返事は次のようなものでした。

「オーケーだ。すべてアレンジするよ」「われわれは日本人に恩返しをしなければいけないからね」

もう1つは、駐イラン日本大使が駐イラントルコ大使のビルセル氏に依頼したルート(二人は同じ日に大使としてイランに着任し、双子の兄弟といわれるほどの親交を深めた仲だったそうです)。ビルセル大使は本国に日本人救援を訴えたとのことです。

しかし、時間もなく危険な戦火の中に救援機を飛ばすのは命がけです。いくらトルコ政府がトルコ航空に依頼しても断る理由はいくらでもあったはずだと思います。ところが、トルコ航空ではミーティングが開かれ、特別機への志願者を募ると、多数のスタッフが名乗りを上げたそうです。

このとき、イランにいたトルコ人は約6000人といわれ、その人たちも救出を望んでいたはずなのですが、救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出なかったそうです。多くのトルコ人が当り前だと思っていたそうです。6000人のトルコ人は陸路を数日かけて脱出したそうです。

トルコが日本人を救出した理由は100年以上前に行なわれた日本人の行為でした。

1890年。日本は明治維新の改革が軌道に乗り始めたころ、一方、トルコはオスマン・トルコ帝国が西洋列強に領土を侵される危険を感じていました。両国の頭上には、帝政ロシアの南下政策があり、ともに脅かされていました。

そこで後に陸軍元帥となる小松宮彰仁親王は夫妻でイスタンブールを訪問し、国王のアブドゥル・ハミト二世に会見しました。その返礼として、国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする600人の使節団を日本に送りました。

一行は軍艦エルトゥールル号で11ヶ月かけてやってきたのだが、明治天皇と会見後、各地で盛大な歓迎を受け、3ヵ月後に帰国の途につくことになった。ところが、折からの台風シーズンで、建造後30年たつ老朽船は和歌山県の樫野埼付近の岩場で座礁し、エンジンが蒸気爆発を起こし船体が真っ二つに割れた。

この遭難に400人の大島村の村民が総出で救援にあたりましたが、多くの人がなくなりました。息がある人たちも身体が冷え切り虫の息でした。そこで村民たちは「死ぬな」と叫びながら、自分たちが裸になってその体温を乗組員に伝えたのでした。そして生き残ったのは69人でした。

400人しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事でした。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないこともあり、食料はすぐに底をつきました。食べさせたくとも自分たちの食料すらありませんでした。そこで村人たちは、自分たちの非常食として飼っていた鶏を料理し始め、彼らはこれで命を長らえることが出来たと言われています。

この一報は明治天皇に伝わり、天皇は直ちに医者と看護婦を派遣しました。生存者は軍艦に乗せトルコまで送還しました。さらに、日本全国から弔慰金が集められ、トルコの遭難者家族に届けられました。

この話はトルコの小学校の教科書に載っているそうです。日本は命をかけてトルコ人を救った国との印象が多くのトルコ人に刻まれ、100年たっても感謝の気持が消えなかったのでしょう。だから、イラン・イラク戦争で命の危険にさらされた日本人を優先的に救出することにトルコ人は誰も異議を唱えなかったのでしょう。

現在、大韓民国には約30000人を超える日本人がいるそうです。もし、有事の事態に陥ってしまったら…

偶然でしょうけど、イラン・イラク戦争でイランへの航空機乗り入れ交渉を担当していたのが、外務大臣だった安倍晋太郎氏。そして現在は日本国政府の首相なのは何かの宿命なのでしょうか。

アジアの東の端に位置する日本の国旗には太陽が描かれており、アジアの西の端に位置するトルコ共和国の国旗には月星が描かれています。